ビッグ・ブラザー達は、冷戦でオーウェルをどのように利用したか2005/09/11 13:55

ビッグ・ブラザー達は、冷戦でオーウェルをどのように利用したか

ガーディアン
2000年6月30日
デヴィッド・ヘンケ、ロブ・エヴァンズ

79ページにわたるジョージ・オーウェル関連FBI書類の公開によって、このイギリス人著者の『動物農場』と『1984年』が、オーウェルが1950年に亡くなって以来二十年間、思想戦争の著名人としてアメリカ人とロシア人の双方に利用されたことが明らかになった。

1949年『1984年』が刊行される前でさえ、アメリカの出版社はこの小説を ソ連の全体主義に対する攻撃として活用しようと、FBI長官、J・エドガー・フーヴァーによる推薦を求めたが、-皮肉なことに、フーヴァーは後にアメリカのビッグ・ブラザーとあだなを付けられたのだった。

ソ連は十年後、オーウェルを、彼の風刺は誰もが監視されているアメリカの実生活に基づいているとロシア人に説明する中傷キャンペーンの一部に利用した。

1960年代と1970年代の間、アメリカの国家保安機関は、アメリカの大学構内にあるジョージ・オーウェルの愛好者クラブや、映画クラブを監視し、そうした組織が社会主義支持の破壊活動的行動の隠れ蓑ではないことを確認していた。オーウェルという名前は、1972年ヴェトナム戦争に反対して、コロラド州デンヴァーにある空軍基地内の幹部食堂を爆破したテロリスト集団「アメリコング」と関連づけられさえした。

ファイルの詳細はアメリカの情報公開法の元で公開されたが、11ページは秘密にされたままだ。この著者に関わるFBI報告は、中にはオーウェルが亡くなってから三年後に送られたものであるにもかかわらず、厳重に検閲されていた。

フーヴァー自身が作ったこのファイルは、1949年4月付けのオーウェル本の出版者からの手紙で始まっているが、その内容はこうだ。「アメリカ国民に対し本書に関心を向けるよう呼びかけるようお考え頂けないか、そしてそれにより、恐らくは全体主義を押しとどめる助けになるのではないか、と私どもは希望するものであります。」

出版社ハーコート・ブレース副社長ユージン・レイナルは、こう補足していた。「ありそうで、ぞっとする現在の社会的、政治的傾向の延長の姿を描いている点で、『1984年』は重要な書籍です。オーウェルは、物語で、二世代以内に実現しかねない全体主的世界への関心を盛り上げ、その脅威を読者に痛感させます。」

レイナルは続けている。「本書は読者に対して『1984年』の世界のおぞましい特徴のどれ一つとっても、現在、胎芽状態で存在しないようなものはないという、衝撃的な感覚を与えます。」

「本書は、人間精神のきらめきが完全には抑圧されていなかった最後の人間が、文字通り、2足す2は5であることを信じるに至る過程を描いています。」

1955年にイギリスで作られたアニメ版『動物農場』はFBIをわくわくさせ、FBIはこのアニメを「大当たり」だと表現した。

フーヴァーは『1984年』を推薦することを断り、書籍と映画についての批評のスクラップを含め、この著者に関するファイルを継続するよう命じた。厳重に検閲されたエージェントの報告書には、オーウェルはもともと「共産主義者に対して協調的だったが、後になって敵対するようになった」とある。

十年後FBIは、オーウェルの風刺は「警察による監視と操作が世界を凌ぎ、匹敵するものがない」アメリカでの実際の生活に基づいていると主張する東ベルリンで組織された「中傷キャンペーン」について報告していた。

「現在既に、アメリカ人の生活は、いわばガラスのカバーで覆われており、あらゆる側面から見ることができる」と共産主義者の世界に配布された報告書には書いてあった。

http://books.guardian.co.uk/departments/classics/story/0,6000,338261,00.html

2001年のジョージ・オーウェル、墓から話しかける2005/09/10 10:14

2001年のジョージ・オーウェル、墓から話しかける

ノーマン・ソロモン

昨夜私はジョージ・オーウェルと会う夢を見た。あなたや私のように生身の彼と。

彼はニュースを見ていて、ひどく怒っていた。「戦争犯罪についてのこの全てのダブルスピークはすざまじいものだ」彼は言った。「あいつ、ミロシェヴィッチ、アメリカ政府は、彼を戦争犯罪で裁きたいのだろう。」

「ええ」私は答えた。「全ての評論家が同意しています。」

「だが一方で、イスラエル首相のホワイト・ハウス訪問にかかわるニュース報道は、彼もまた戦争犯罪人として起訴されてしかるべきだということを指摘しそこねている。結局、証拠は明らかに、アリエル・シャロンが、1982年、レバノンの、サブラとシャティラの難民収容所における何百人ものパレスチナ人虐殺に関与していたことを示している。なぜメディアのコメンテーターは彼をハーグ裁判所の被告席に立たせろと要求しないんだ?」

「ええ、アメリカ合衆国政府は、イスラエルとは親密なので...」

オーウェルは私を遮った。「私の質問は、答え不要の問いかけさ。分かっているよ。本当さ。」彼の声は震え、かすれはじめたので、断片的にしか聞こえなかった。「例は山のようにある...トルコ政府...アメリカの同盟国は...長年にわたってクルド人を殺害している...言語も文化も容赦なく抑圧している...報道機関は何をしている?」 彼は咳をして、弱々しくまた話はじめた。「ヘンリー・キッシンジャー...ヴェトナム、ラオス、カンボジア ... 東チモールでの大規模な殺人...チリを忘れてはならない... 公平な報道というならどこでも...」

「ここ数ヶ月」私は差しはさんだ。「ジャーナリストのクリストファー・ヒチンスがキッシンジャーにかかわる騒動をぶちあげましたし」

オーウェルははねつけるように手を振った。「けちな慰めだ...遅れたニュースなど、無視されたニュースも同じ事...うんざりするメディア操作だ...」

「大手メディア用にはかなり過激な発言ですね。」私は叫んだ。「でも当節あなたは、ほとんど至る所で崇められておられる。」

オーウェルは咳をしながらぞっとする笑いかたをした。次の言葉は最大の音量だった。「その通り。片方の手でかき抱きながら、もう一方の手で薄めるのさ。そして、恐ろしいほど薄い紅茶となって差し出される」

そこで私は突然目が覚めた。フロント・ポーチで新聞のドサッという鈍い音が響いた。「オーウェルさん」私はつぶやいた。「何とおっしゃいました?」しかし答えはなかった。窓越しに射すあけ方の光と、ナショナル・パブリック・ラジオ「朝刊版」のとおくからの音がするばかり。

ジョージ・オーウェルは1950年に亡くなった。21世紀に至るまで長生きしていたなら、彼はアメリカ合衆国における市民的その他の自由を大切にしつつも、この社会の、絶えず強化され続ける洗脳という根深いパターンを遺憾に思ったであろうことはまず間違いない。

知的従順さをもたらす「民主主義的な」手順と、狡猾な政治的プロパガンダを、オーウェルは大いに懸念していた。ソ連の専制政治を描いた風刺小説『動物農場』で、西欧から東欧へと糾弾指摘するだけで満足せず、ほぼ30年もの間、刊行されている本からは削除されていた挑戦的な前書きを書いていた。

その前書きにはイギリスにおける一般的な議論の情勢にかかわるこういう陰気な分析がある。「ロシア称讃が、たまたま現在は流行しているようだ。」オーウェルは鋭敏にも「このファッションは、まず長続きはすまいと思われる。」と推察していた。けれどもオーウェルはさらに続けていた。「ある正統派学説から違う学説に乗り換えることは、必ずしも進歩とは限らない。敵は、演奏されるレコードに同意するしないと無関係に、何でもかけてしまう蓄音機のごとき心性だ。」

現在では、オーウェルの「蓄音機」という例えはやや古めかしい。これは「CD的心性」とでも呼ぶ方がふさわしかろうが、彼の意見は今でも鋭くあてはまる。イデオロギーは、それが余りに支配的となり、イデオロギーとして認識さえされない状態になった時こそ、最も破壊的になる。

オーウェルが1945年のイギリスを描写する前書きで書いたことは、2001年のアメリカ合衆国にもそっくりあてはまる。「この国では、知的な臆病が、作家やジャーナリストが直面しなければならない最悪の敵である。... 公式の禁制など必要無しで、大衆から嫌われる思想は沈黙させられ、不都合な事実は隠される... いかなる時点においても、正しく思考する人々全員が、疑念を抱かずに受け入れるべきものとみなされている、思想の集合体としての正統学説がある」

1946年12月、アメリカでの『動物農場』刊行の四ヶ月後、オーウェルは評論家ドワイト・マクドナルドへの手紙の中で書いていた。「人々が、私は現状を擁護していると見なしているのだとすれば、それは、人々が悲観的になっていて、独裁主義、或いは自由放任の資本主義の他に、代替案がないと思いこんでいるからだろうと思います。」彼は更にこう言っていた。「私が言おうとしていたのは、『自分自身でやらない限り、革命など実現できない。情け深い独裁政治などというものは存在しない。』ということです。」

オーウェルは反共産主義者だった。彼はまた資本主義体制に猛烈に反対した社会主義者でもあった。これは現代のアメリカではどの巨大TVネットワークでも、常連コメンテーターとしての登場は不適格とされてしまう立場だ。

ノーマン・ソロモンの近著は"War Made Easy"

http://www.commondreams.org/views01/0629-04.htm

『動物農場』には掲載されなかった前書き、The Freedom of Pressの翻訳『出版の自由』は、岩波文庫『オーウェル評論集』で読めますが、品切れの場合が多いようで残念。

オーウェルの不幸な誕生日2005/09/09 16:04

オーウェルの不幸な誕生日

ノーマン・ソロモン

ジョージ・オーウェルの誕生日が気がつかないうちに過ぎた。1903年6月25日生まれの偉大なイギリス人作家が亡くなって半世紀過ぎたが、オーウェル風言語は生き続けている。

詩人のW.H.オーデンが「オーウェルがまだ存命であったならとどれほど切望することか。現代の出来事について彼の見解が読めただろうに!」といった言葉をそのままオウム返ししたくなる理由は当節山ほどある。

今日アメリカ合衆国において、政治議論についてのメディア報道は、「我々の思考が愚劣になっている為に、言語が醜悪で不正確になっているが、我々の言語のいい加減さが、我々が馬鹿げた思考を抱きやすくしている。」というオーウェルの観察を立証している。

ニューズ・メディアが事を悪化させることは頻繁にある。レポーター達は、騒動を吟味する代わりに、厳かに伝言する傾向がある。若干自分の意見を付け足した上で。

アメリカ政治の標準的専門用語はオーウェルを愕然とさせるほど上滑りな語り口のしろものだ。こうした語彙は、吟味無しに反復することによって力を得ている。

オーウェルの仕事を継続するには、我々を至る所で包囲しているメディアのきまり文句を疑ってみるべきだ。例えばこんな具合だ。

中道主義者:エリート仲間内での親愛の情を示す用語。通常、淀んだ水の中で行き詰まった船さえも揺すろうとしない政治家に対して着けられる。

改革:かつて腐敗や特権を無くすことを目指す変化を指す言葉だった。今やこの言葉は、あらゆる政策変更に対して都合の良い光沢を与えている。政治的意図が何であれ、それを載せたトラックで通り抜けるのに、十分に曖昧でぽっかりとあいた言語学的抜け穴。

超党派の:通常げす連中からは見えないところで秘密裏に合意される、偉大なる一致と国家目標を現す二大政党を歓呼する形容詞。

特別利益団体:普通、何百万人もの人々の選挙民集団、つまり老人、貧しい人々、人種的少数派、労働組合員、フェミニスト、ゲイ...等に対する否定的なレッテル。以前は、政治に影響を与えるのに、人数では負けているので札束を使う金持ち集団を指した軽蔑的用語だった。

情報筋によれば:高所からの漏洩情報で、ジャーナリズム用シャンペンとして供されるもの。

専門家:頻繁に出番があり入念に選び抜かれたこの人々は、世間一般の信じやすさから次回の収穫を得るための肥料を供給している。

防衛予算:実際の国家防衛とはほとんど無関係なくせに、こうした支出は最も罪のない呼び名を必要としている。

アメリカ政府高官:無名で、実態よりも大きい。異なる文化においては「神の使者」と呼ばれたりする。

法の支配:ルールを決める連中が、法律を定める場合に起きること。海外であれ国内であれ、時として暴力的に。

国家安全保障:あらゆる外交的、或いは軍事的作戦...或いは、あらゆる望ましからぬ情報抑圧用のできあいの口実。

地域の安定:現存する惨事の継続を正当化する小綺麗な言い回しとして使える。

西欧の外交官:忍耐と智恵の砦ともいうべきこうした人々は、外国の地政学的水域を航海するための羅針盤だ。

西欧:良きグローバル勢力の同義語として用いられることが多い。

ジョージ・オーウェルは彼の最後の小説『1984年』を、1940年代後半に書いた。その頃に、アメリカ「陸軍省」(War Department)は「国防省」(Defense Department)になった。オーウェルの小説は「ある種のニュースピーク言葉の特別な機能」が「意味を表現するというより、意味を破壊する」ことを予期していた。

そのような言葉や言い回しの繰り返しは、果てしがない。岩への絶えざる点滴同様、その集積効果はとてつもなく大きい。

言語、対話そしてディベートは、民主主義的な手順には不可欠な道具だ。しかしながら、言葉が鈍器として振り回される時、それは我々の心を昂揚させるというより、脅えさせる。

言葉が投影する誇張されたまぼろしが、ここ数十年の間増えているが、それも新しいことではない。スチュワート・チェースは1938年にこう書いた。「言葉と物事の同一化は、『豚ってうまい名前をつけたね、あいつらほんとに汚い動物だから。』という子供の発言が見事に表している」

不明確なシンボルより決して優れているわけではない言葉や言い回しが、概念という光景を支配するようになっている。土地そのものとごっちゃになった地図のようなものだ。聞き慣れた言葉が、考え方や出来事を調べるのではなしに、考え方や出来事にレッテル貼りするために使われることが余りに多すぎる。

ヴェトナムの「鎮定工作」(pacification programs=殲滅工作)から、イラクにおける「巻き添え被害」(collateral damage=民間人殺害)に至るまで、曖昧で婉曲的な言葉が、非人間的な政策をごまかすために長年にわたって使われてきた。

ジョージ・オーウェルは1950年、結核に屈し若くして亡くなった。しかし、あらゆる平易な言葉の背後を探り、それが往々にして曖昧にしている現実を暴く限り、彼の鋭敏さは生き続けさせられよう。

http://www.alternet.org/columnists/story/9391/

オーウェルの著作/リンク・ページもどうぞ。 http://www.asahi-net.or.jp/~IR4N-KHR/orwell/index.html

オーウェルならブッシュ政権を愛したろうか?2005/09/08 14:29

オーウェルならブッシュ政権を愛したろうか?

Jon Eekhoff 2004年4月5日

1948年にジョージ・オーウェルが「1984年」を書いた時、ロシアのヨシフ・スターリン体制をビッグ・ブラザー政府のモデルとした。圧政的なビッグ・ブラザーは常に監視しており、常に戦争状態にあり、そして常にオセアニア(イギリスとアメリカ)国民に対する情報の流れを管理している。

どうもどこかで聞いたような気がする、という人はいないだろうか? そう。「人は、我々の味方であるか敵であるかの、どちらかだ」という主張と立場を同じくしないものにとり、ブッシュ政権はビッグ・ブラザーと驚くほど良く似ている。

愛国法から見てみよう。(オーウェルには、この名称のいかにもダブルスピーク的なところが気に入ったことだろう。) 愛国者は、監視されることを甘受する。愛国者は、正しく振る舞い、アメリカ国旗を正面に立て、言われた通りのことをしている限り、心から愛するビッグ・ブラザー/ブッシュ政権の連中を恐れる必要など何もない。そうした規則に従わない連中が連行され、容疑なしに拘置され、代理人なしに尋問されるのだ。「1984年」の思想警察は、オセアニアの人々に対し、同じ様な形の政府管理を採用している。

国土安全保障省/愛情省は、外部の敵という悪から我々を守るためにある筈ではなかろうか? 私たちは、ずっと安全だと感じていられるはずではなかろうか? もし国土安全保障省長官トム・リッジとその部下連がいなければ、邪悪な敵が我々を殺し、破壊してしまうのではなかろうか? そうした恐怖の類によって、安全性といわれるもののために、我々は権利を放棄するようになっている。そう、そこで我々は安全でいられる限り多少の自由をあきらめたのだ。私が覚えている範囲では、9/11以前には、かなり安全な状態の期間を謳歌していたような気がする。 そこであなた方がこう言う声が聞こえてくる。「時代が違うさ。当時我々はテロリスト攻撃の目標ではなかったのだ。だが今は攻撃目標だぞ」 そう言いながら、海外での「テロリズムとの戦い」に巨額のドルを注ぎ込み続けている間に、合州国にあって我々は益々借金にはまりこむ。恐怖が支配している限り、我々はインフラストラクチャーが悪化してゆくのに目をつぶっていられるし、ビッグ・ビジネスが暴走するのにも目をつぶっていられるし、環境がテロリズムの二の次とされるのを許し、もともと我々の生活の一部だったあらゆるサービスに対して、益々多くの金を払い続けることもできる。

恐怖によって、ブッシュ政権は大量破壊兵器を発見する為にイラクを攻撃する権利を得、戦争目的を究極の善の一つへと変更した。我々はイラクの人々を自由にしたかったのだ。我々は中近東に民主主義国家を作りたかったのだ。我々は世界から、大いなる悪を一掃せねばならないのだ。

「1984年」では、政府は変わり続ける敵と常時戦争状態にある。オセアニアの人々は、誰が敵で、誰が同盟側なのか忘れ始めている。ブッシュ政権は、誰が敵で、誰が敵でないか、はっきりと線引きしてくれた。悪の枢軸として、誰が良い連中で、悪い連中なのかはっきりしているだろうか? フランスは何にあたるのだろう? サウジアラビアはどうだろう? (9/11テロリストの大半はあの国出身だ。) 「有志連合」以外の連中は、皆敵なのだろうか? ブッシュ政権の連中が我々に語りかけている事よりも広い視野で考えて見ると、この境界線はやや曖昧になる。

一つ確実なのは、我々は期限なしで悪との戦いをしているということだ。心配には及ばない。我々はもう戦争状態に慣れてしまった。軍関係であったり、愛する人がイラクにいない限り、この戦争で生活に一体どんな影響があったろう? 私は今でも仕事に出かけている。私は今でも子どもを学校に送って行く。私は今でも愛国的義務を果たし、ウオルマートでの買い物に出かけている。大半のアメリカ人にとってこの戦争は、夜のニュースが戦死者数を数え上げるのを我慢する以外、全く、あるいはほとんど生活に対して影響をもたらしていない。我々は本当に「戦争は平和だ」(ビッグ・ブラザーの三つのスローガンの一つ)という情況に至ってしまったのだ。

ブッシュ政権は国内の自由な情報の流れも制限している。マスメディア独占のおかげで、見かけが派手なニュースまがいのものが大量に溢れているが、評論家連が二派にわかれ、わめいて議論を戦わす以上の内容が一体どこにあるだろう? ニュースは、要するにセンセーショナルに表現されたヒステリーに過ぎず、報道価値などないのだ。ブッシュ政権の連中は、これまでのどの政権より、我が文化のこの要素を存分に利用している。イラク侵略戦争中のメディア利用は実に天才的だった。エンベッドされたジャーナリスト達は、軍と一緒に進みたい余りに、戦争を客観的に見る能力を喜んで犠牲にした。これはメディアが余りに愚鈍にして意識しそこねていた、一種の検閲であったが、素晴らしいテレビ番組ができるということで、誰もあえて異を唱えようとはしていないようだ。

ブッシュ政権とメディアの関係をより深く考えてみると、トップから直接情報を得ることが実際にはどれほど大変なことかが分かり始める。ブッシュ大統領は、報道陣が自分に直接質問することをいやがっているが、彼は常に、自分の大農場で皆の方を向き、にっこり笑って手を振って、シャッターチャンスを設けている。こうしたあらかじめ用意されたニュースは、取材が楽な上に、ブッシュ政権にとって必要なものだけを提供してくれる。つまりニュースは形だけで、なんら本当のニュースではないのだ。オーウェルなら、ニュースをこうして矮小化する手腕を称讃したことだろう。ビッグ・ブラザーは、ニュースを矮小化し、オセアニアの公用語であるニュースピークを通して思考を矮小化させた。ビッグ・ブラザーは、ブッシュ政権に比べ、確かに人々に対する直接的な権力を持っている、だが我々が議論できる範囲は制限されているし、制限され続けるだろう。

「1984年」の最後に、オーウェルの主人公ウインストン・スミスは、愛情省による拷問を受けて2 + 2= 5であることを認めるにいたる。そこで彼は殉教者としてではなく、ビッグ・ブラザーの信徒としてロンドンの町に戻される。とうとう独自の思考を諦め、ビッグ・ブラザーを愛した時、ウインストンは殺されて小説が終わる。小説のこの寒々しい結末は警告として意図されていた。政府に余り多くの権力を与えるべきではないのだ。我々は、政府が与えるものなら何でもそのまま呑み込む、考えることを放棄したぐうたらの身には、決してなってはならない。自分たちの利益を、我々の利益よりも優先するような政府に、決して満足してはならない。

オーウェルなら、ブッシュ政権の政策にはあきれかえったことだろうし、我々もそうあるべきだ。

Jon Eekhoff氏御本人の承諾を得て翻訳。元の記事は以下。 http://www.orbusmax.com/oped/jone_040504.html

http://www.asahi-net.or.jp/~IR4N-KHR/orwell/jone_040504j.html より転載

宗主国の政治は、属国の鏡なのでしょう。